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【6月といえば】日本の伝統行事・食べ物・風物詩【歳時記】

【6月といえば】日本の伝統行事・食べ物・風物詩【歳時記】 伝統
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牛頭天王

これは、「備後国風土記逸文」(延長923~930頃)の「疫隅国社(えのくまのくにつやしろ)」に記され、卜部吉田兼方が13世紀後半に著した「釈日本紀」に引かれている話がもとになっているのですが、さらに同じ卜部家が後の戦国時代に編纂した「二十二社註式」の祇園社の条に引かれているものです。

話は、疫隅の国社(江熊祇園社)の縁起で、

「昔、北海の武塔(むとう)の神が、南海の神の娘によばい(嫁取りのこと)に出たところが途中で日が暮れました。そこに蘇民将来と巨旦将来という兄弟の家に宿を求めました。弟の巨旦将来は金持ちでしたが宿を拒み、貧乏な兄の蘇民将来が宿を貸して接待しました。

後に武塔神は目的を遂げ八柱の御子をえて帰ってきて、巨旦の家の者を皆殺しにしてしまいました。ただ、巨旦の家に嫁いでいた蘇民将来の娘には腰に目じるしの茅の輪を付けさせ、その娘ひとりを残してすべてを殺してしまったのです。そして「吾は速須佐雄(はやすさのお)の神である。のちの世に疫気あらば、蘇民将来の子孫といって、茅の輪を腰につけた人は免れることができよう」と託宣した。

というものです。

祭などの際に、祇園社を始め諸社の社前に茅の輪を作ってこれを潜らせるのは、この話に基づいています。

この話には牛頭天王の名は出てきませんが,鎌倉時代初期に増補された「伊呂波宇類抄」には,武塔神の本名を牛頭天王,その父を東王父天,母を西王母天,その妻の南海神を沙竭羅竜王,子を八王子とし,八万四千六百五十四の眷族(従神)を擁するとしています。

牛頭天王の本縁譚には、もう一つあって、鎌倉時代末から南北朝期に書かれたとされる陰陽道の百科全書「三国相伝陰陽(車管)轄ほき内伝金烏玉兎集」の「牛頭天王縁起」(「ほき内伝」の「ほ」は「竹冠+甫+皿」で祭典で神に供える穀物を盛る円い器のこと。「き」は「竹冠+艮+皿」と云う字で、同じく四角い器のことです)、「神道集」の「祇園大明神事」、室町期以降「ほき内伝」の縁起を基に創られた「祇園牛頭天王縁起」などの諸本の系統があります。

「祇園牛頭天王縁起」には、

北天竺の摩訶陀国(まかだこく)の王舎城の大王は、かつて帝釈天に仕えて善現天に居て諸星を探題し、天刑星(てんぎょうせい)と号していましたが、娑婆の世界に下生してからは、牛頭天王と称しました。

天王の国は豊かでしたが、大王は頭に黄牛の面を戴き鋭い両角を有した夜叉のような容貌のために、王には后がありませんでした。そこに毘首羅(びしゅら)の化身であり天帝の使いの瑠璃鳥が飛来して、王に「南海の沙竭羅竜宮城に金毘羅女、婦命女、頗梨采女(はりさいじょ)の三人の妃がいる。第三女頗梨采女を嫁に請い受けよ」と告げました。そこで牛頭天王は、眷族達を供に連れて八万里離れた南海の頗梨采女の処に向かいますが、その途中三万里進んだところで疲れてしまいました。そこで、その辺りにあった南天竺の夜叉国の鬼王、巨旦大王に宿を頼みます。しかし、宿を断られてしまい困っていると、その奴婢が巨旦の弟、蘇民将来のことを教えます。蘇民は牛頭天王を泊めて粟を煮てもてなし、隼鷂(はやたか)と云う宝船で竜宮城に送りました。牛頭天王は竜宮城で頗梨采女(歳徳(としとく)神)を娶ります。その仲はたいへん睦まじく「夜は鴛鴦の襖の下に偕老同穴の妹世を学び、昼は蓮理の花の陰に比翼の相思の契裳を翻し」という様子で、八人の王子をもうけました。

この八王子は、天王に随従してその行化を助け、太歳八神として苦楽の吉凶を決する方位の八将神で

  •  一は大(太)歳神〔たいさい・惣光天王〕
  •  二は大将軍〔だいしょうぐん・魔王天王〕
  •  三は大(太)陰神〔たいおん・倶摩羅天王〕
  •  四は歳刑神〔さいきょう・得達神天王〕
  •  五は歳破神〔さいは・良待天王〕
  •  六は歳殺神〔さいさつ・待神相天王〕
  •  七は黄幡神〔おうばく・宅神相天王〕
  •  八は豹尾神〔ひょうび・蛇毒鬼神〕

です。

天王は竜宮城で楽しいときを送っていましたが、ある日、后と八王子を連れて北天の王舎城に帰ろうと思い立ち、その帰途、南海に来るときのことを思いだして以前に宿を断った巨旦を攻めようとしました。この気配を感得した巨旦は、博士の卜に従って、千人の僧に太山府君の法を行わせましたが、一人の僧が居眠りをしたため、その隙に天王と眷属が攻め入って巨旦の一族を滅ぼしました。しかしその折、天王は以前助けてくれた奴婢だけは助けようと思い、桃の木の札に「急(口偏+急)急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」と書いて弾指すると、札がその奴婢の袂に入り、その女は難を免れました。

牛頭天王は、巨旦大王の屍を切断して五節に配当して調伏の儀式を行い、蘇民将来の家に行って彼に夜叉国を与え、その子孫であると申し出れば疫病の難から守ると次のように誓願しました。

「今後、私は行疫神(病気を流行させる神)となり、八王子を連れてこの国に乱入するであろう。しかし、蘇民将来の子孫だけは禍を免れることができるように二六の秘法を伝授しよう。病気を避けたいと欲するなら、五節の祭礼を必ず行い二六の秘法を収めて、それを信じて敬うようにするべきである。五節の祭礼の祭礼とは、正月一日の赤白の鏡餅は巨旦の骨肉、三月三日の蓬莱の草餅は巨旦の皮膚、五月五日の菖蒲は巨旦の鬢髪、七月七日の小麦の索麺は巨旦の継(すじ)、九月九日の黄菊の酒水は巨旦の血、蹴鞠は頭、的は眼、門松は墓である。これは全て巨旦大王を調伏するための儀式である。」

この本縁譚には、娘に茅の輪を付けさせて救うと云う話はありませんが、その代わりに,修験者が符に書く「急(口偏+急)急如律令」の呪文が挙げられています。なお、この「祇園牛頭天王縁起」においては、天王は蘇民の家を去るときに御札に諸願を成就させる牛王(牛の肝に含まれている霊薬)を与え、蘇民はこれにより家屋敷や財産を得たとされます。また、更に天王は、牛王によって蘇民を擁護すると言いました。そこで祇園社などの寺社においては牛王宝印(祇園社のものは特に「牛玉宝印」と称し「玉」の字を用いています)を作って人々に与えているとしています。

明治より前の日本人にとって「てんのう」とは、まず牛頭天王のことで、天王山・天王町・天王祭などは、すべて牛頭天王社にかかわる名称です(「四天王寺」を「天王寺」と略すのは例外)。

 

八坂神社

この牛頭天王、頗梨采女、八王子を祭っているのが、祇園さんの呼び名で親しまれている八坂神社です。

八坂神社は、山城国愛宕郡八坂郷の地名にちなむもので、明治元年(1868)の神仏分離令により、感神院祇園社が改められたものです。この時に、祭神名も素戔嗚尊(すさのおのみこと)・櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)・八柱御子神(やはしらのみこのみこと)に改称されています。

社伝によると、祇園社は斉明天皇2年(656)高麗の調度副使伊利之(いりし)使主の来朝にあたって、新羅の牛頭山に坐す素戔鳴尊を神霊を勧請し、天智天皇6年(667)に社殿を建立したとされます。「新撰姓氏禄」によると伊利之は、崇峻天皇二年(589)八坂塔で知られる法観寺を建立した八坂造の祖とされています。

素戔鳴尊は新羅の曽尸茂梨(ソシモリ)という地に居たという所伝が「日本書紀」の一書に記されていて、「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」という韓国語では、牛頭または午首を意味します。祇園社附近の八坂郷は、古くから韓国より渡来した人びとが集落を営んでいたとされ、韓国各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の村が存在することなどから、牛頭天王と素戔鳴尊が結び付いて行ったことも考えられます。

そして、また「祇園」の名前は、素戔鳴尊が牛頭天王の化身とされることに由来しています。
つまり牛頭天王が、須達長者が釈迦のために造った祇園精舎の守護神であったことに因んでいるのです。牛頭天王はインドの牛頭山(摩羅耶山・高山・摩梨山)の神で、この山は山中に栴檀(せんだん)の樹が多く、山容が牛の頭に似ているので、牛頭栴檀と名付けられたと云います。そして、栴檀から熱病・風腫などに効く薬が採れることから、この山神が疫神とされ、牛頭天王と呼ばれて民間において広く信じられ、その結果、祇園精舎の守護神とされたと推測されているのです。
この牛頭山の信仰が、やがて唐を経て朝鮮に入り、日本に入ってきたのです。

 

祇園祭

八坂神社の神事としては、「祇園祭」や「おけら詣り」が知られ、広く親しまれています。
祇園祭は、旧暦六月に行われていたものですが、春と秋に稲の収穫を祈念感謝する農村型祭礼に対して、天王祭と同様、夏や梅雨時に流行する疫病を振り祓う祭礼です。現在は、7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。

祇園祭の起源は古く、平安時代のはじめ頃、都に疫病が流行して多くの人が死に、この原因は政治的に失脚し処刑された者の怨みによる崇りであろうと考えられました。怨霊のことを御霊といい、これを退散させる祭りを御霊会(ごりょうえ)と称して、貞観5年(863)に崇道天皇(早良親王)ら六所の御霊を祭ったことが「三代実録」に記されています。

祇園社の名ではっきり記されているのは「祇園社本縁録」で、貞観11年(869)6月7日のことです。悪疫を鎮めるために、ト部日良麿が日本全国五畿七道六十六ケ国の数に応じた66本の鉾を神泉苑に立てて牛頭天王をまつり、祇園社から御輿を送って災厄除去を祈ったと伝えられ、これが祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)の始まりだったといわれています。

当時の人達が、疫病の流行を横死した人々の怨霊や外国から渡来してきた疫神のせいであるとして牛頭天王と結びつけたのも納得できます。

そして、天禄元年(970)に「毎年の儀」となって以来、千年余にわたって町衆によって受け継がれてきました。現在、32基の山鉾が宵山・山鉾巡行で祭りを彩ります。

 

鉾の起こり

古来、天の神は天から地上の高いところへ降りて来る、もしくは海の彼方から川を伝ってやって来ると考えられていました。それで祇園御霊会は全国66ヶ国に因んだ数の矛を立て、神輿を神泉苑へ送るという形になったのが初めです。

鉾の屋根に立てられた木は真木(しんぎ)と呼ばれ、神の依り代 (よりしろ)です。人がなんとか持つことができるほどの大きさの矛が、天からの神が降りて来られ宿られる神聖なものとなります。そういった意味で、人が仰ぎ見るように位置するため、どんどん高く大きくなっていったと考えられています。

 

山の起こり

山の原形になるものが出現したのは、998年と考えられています。无骨(むこつ)頼信という雑芸者が祇園御霊会の際に標山(天皇即位の儀式に用いられた飾り)のようなものを持ち込んだことが初めだということです。その当時すでに天皇即位の儀式には標山は用いられていませんでしたから、民衆の目には非常に新鮮なものとして映ったのかもしれません。
山には松(太子山は杉)が立てられます。高い山も神が降りて来るところなので、山を表すために松が立てられているのです。この松も神の依り代です。今では町衆の中を天に向かって聳え立つ鉾の姿は、昔の人々を圧倒したのでしょうね。

 

無言詣り

祇園では、祇園祭の最中、神霊が宿っている17日の宵山から24日の還幸祭の前夜までの七夜、毎夜欠かさず花街のきれいどころが心願成就のために四条御旅所に夜詣りをする無言詣りというのがあります。このときは行きも帰りも、知人に会っても口をきいたり、笑ったりできません。もしそのようにしたら、悲願が成就しないので「無言詣」と呼ばれ、人気の少ない深夜を選んで行われているようです。

宵山の人ごみのなかにも、夜更けの納め囃子の音を聞きながら、まるでお百度をふむような思いで、悲願を内にこめて歩いている人もいるのです。

 

芒種(ぼうしゅ)

二十四節気の一つで、6月6日は芒種にあたります。この時期になると芒
(針状の突起)がある穀物の種をまく時期になります。主に稲などの
種のことを言いますが、農家では田植えの時期になり、四国、中国や
近畿地方の西日本では梅雨入りの頃になります。

 

入梅(にゅうばい)

6月11日は入梅にあたります。この日は立春から数えて127日目です。
この日から暦の上では梅雨入りになりますが、これは農家での農作業の目安にも
なります。この日から30日間が梅雨期となりますが、実際は地域で梅雨入りが
異なります。

 

夏至(げし)

二十四節気の一つで、6月21日は夏至にあたります。太陽の日没が最も北に寄り、
北回帰線の真上までやってきて1年中で昼間が一番長い日です。東京での昼間の
長さが冬至に比べると、4時間50分も長くなります。ですが、梅雨の最中なので
雨や曇りの日が多く、それほど長くは感じないかもしれません。農家では
この日から11日目の『半夏生(はんげしょう)』までに田植えを終えることに
なります。

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