鬼門(北東)の方角にトイレや台所を作ってはいけない。家を立てるときに、方角や間取りとの関係のタブーがあります。それはなぜでしょうか。古代中国で生まれた家相の考え方は、日本に伝来し、江戸時代に庶民に広まりました。単なる占いの1つとも思える家相と住居学の関係を見ていきましょう。
家相の歴史
日本では、大宝律令で陰陽寮という官制が施工されています。占星やボクゼイなどの業務を執行するところです。今で言えば、占い屋さんです。占いで、戦争や政治を占うわけですが、秀吉の朝鮮出兵でも、この陰陽寮を使って戦争をしています。
結果は、ご存じのように敗け。
すなわち、占いは迷信に過ぎなったということで、関係者は全員、追放されています。
今では占いが外れたからといって、職を失うわけでもなく、言うことがコロコロと変わっていてもテレビに出ている人もいますが、当時は命がけです。
ところが、徳川の世になり、秀吉の敵は徳川の味方という理屈で、陰陽寮が復活しています。
そして、江戸の中期には占いが街頭に進出していきます。
庶民に占いというものが浸透していくのですが、その中にある「住まいと暮らし」の知恵が一家相として、一般にも取り入れるようになり、こんにちに続いています。
ちなみに、占いなどの書物は、広がりはじめた江戸中期以降からのものしか残っていません。秀吉が1度目の朝鮮出兵で敗けたことで、占い関係の本を全て焚書(ふんしょ)したようです。
家相が体系化された背景
古代中国で体系化され、日本に伝わってきた「家相」ですが、発達したには理由があります。
まず、鬼門です。
当時の中国では、北東が草原で匈奴(きょうど※遊牧民族)などの外敵の侵入経路だったので、鬼門が忌み嫌われていた説があります。
では、中国の気候や環境を考えてみましょう。
一日の温度差の激しい大陸性気候、強い北西風にのって吹き付けられる黄塵(こうじん)、黄河の氾濫。そのような環境から、家や人を守ることが基本になり、さらに夏は涼しく、冬は暖かくする工夫や、家を長持ちさせる知恵などが体系化されていき、家相が作られたのです。
家相は単なる占いのたぐいで、オカルトという声もありますが、歴史を紐解いていくと、現代でも役立つ古代の知恵ではないでしょうか。
平安時代の都市計画は家相で作られた
完成された家相が日本に渡ってきたのは奈良時代。奈良朝の時代です。
最初は宮廷建築に応用されます。
次に都市計画に取り入れられました。
家相では青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の地が最上です。
東に川が流れ、西に大道、南に平原、北は丘稜がある土地。
色と動物を陰陽五行説にあてはめ、方角に結び付けます。
この条件にピッタリと合ったのが、平安京なのです。
鬼門にあたる比叡山には延暦寺を建て、鬼門除けを作りました。
この家相の考えは、江戸城の設計や江戸の町作りにも生かされています。
鬼門に「寛永寺」を建立しています。
※日光東照宮や浅草寺を鬼門とする記載が多くありますが、正確な記録は見つかりませんでした。
現代に生きる家相と住居学の知恵
国立国会図書館が秘蔵する「家相秘伝集 上下」の中から現代に通じる知恵を現代語に意訳して紹介します。
歴史に興味ある方は、デジタル化されているので、是非、ご覧になってください。
家相秘伝集:http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760094/26
・南に空き地がある家は吉
・狭い敷地に大きな家は大凶
・建物は内から外へ作るのが吉
・門柱が曲がっているのは凶
などなど、たくさん面白い話が書かれています。
最後に
ベテランの漁師さんは、気象台より的中率の高い天気予報をします。急に風が吹いてくるなど、突発的なことにも敏感に予想し、危険な漁を誤らずにこなしています。占いとは、そんな経験による神通力かもしれません。
家相本来の意味は、門柱が曲がっているのは凶ではなく、門柱が曲がっていても、そのままにしておく住人が家を衰退させるのです。家相とは、「よい人相の人が住めば、よい家相に変わってくる」と考えることができます。
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