辞世(じせい)というのは、この世に別れを告げることを言い、人がこの世を去る時に詠む句などの短型詩のことを辞世の句といいます。
ここでは、皆さんがよくご存知の歴史に残る女性の偉人が詠んだ辞世の句を一覧にまとめて紹介していきます。 平安時代、戦国時代、江戸時代など 昔の人が詠んだ女性らしい美しく儚い句がたくさんありますので、彼女たち切ない情景などを感じ取ってみてください。
女性の偉人が詠んだ美しい辞世の句 一覧
小野小町
あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば
「わたしの亡きがらは浅緑の煙となり、さいごには野辺にただよう霞になってしまうのだなあ」
小野小町とは:
六歌仙に数えられる歌人。古今和歌集では自分の美しさが衰えることを嘆いていた小野小町。
紫式部
誰か世に ながらへて見る 書きとめし 跡は消えせぬ 形見なれども
「死んでいく者が書いたものを、いったい誰が生きながらえて読んでくれるだろう。書いたものは消えることがない形見ではあるけれど」
紫式部とは:
「源氏物語」作者として有名な紫式部ですが、歌人としても評価の高い女性でした。
細川ガラシャ
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
「死ぬべき時を知っていてこそ、人間が人間たりえるのだ」
細川ガラシャとは:
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。敬虔なキリシタンだったことで知られています。
お市の方
さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな
「ただでさえ眠るころの夏の夜に、別れをうながすほととぎすがいるようですね」
お市の方とは:
戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。
戦国大名・織田信長の妹で、初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。戦国時代を代表する女性。
和泉式部
あらざらむ この世のほかの思ひ出に 今ひとたびの あふこともがな
「私はまもなくこの世を去りますが、その思い出にもう一度あなたに会いたい」
和泉式部とは:
平安時代中期の歌人で、越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
藤原定子
夜もすがら 契りしことを 忘れずは 恋ひむ涙の 色ぞゆかしき
「いつまでも一緒だと夜通し誓ったことを忘れないでくれるなら、私が死んだ後、あなたが恋しく思って流すあなたの涙の色を知りたい」
藤原定子とは:
平安時代、第66代一条天皇の皇后。
大祝鶴姫
わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ
「わたしの恋は海の中の空っぽの貝殻のよう 彼の名を思い出すだけでも辛い」
大祝鶴姫とは:
戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。 大山祇神社の大祝職・大祝安用の娘といい、兄に大祝安舎と安房がいたとされる。
春日局
西に入る 月を誘い 法をへて 今日ぞ火宅を逃れけるかな
「西の方へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の道に入って、今日こそ煩悩の多いこの世からのがれることが出来た」
春日局とは:
安土桃山時代から江戸時代前期の女性。 江戸幕府3代将軍・徳川家光の乳母。「春日局」とは朝廷から賜った称号。
朝廷との交渉の前面に立つ等、近世初期における女性政治家として、徳川政権の安定化に寄与した。
東福門院和子
武蔵野の草葉の末に宿りしか都の空にかえる月かげ
「武蔵野の草葉の末に宿るのだろうか 京都の空に帰る月の光は」
東福門院和子とは:
東福門院(徳川和子)は江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇の中宮。明正天皇の生母。また女院とし て東福門院。
中野竹子
ものゝふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも
中野竹子とは:
幕末期の会津藩の女性で。会津戦争において自主的に婦女隊として戦い、戦死した。
辞世の句を書いた短冊が薙刀の柄に結いつけてあった。
駒姫
罪なき身も世の曇りにさへられて ともに冥途に赴かば 五常のつみもほろびなんと思ひて 罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき
「罪なき私の身も、世の中のよこしまな動きに邪魔されているが、みんなともに冥土にいったならば五つの徳目に背いた罪もなくなるだろうと思って、罪を切る弥陀の剣にかかる我が身、どうして成仏できない五つの差し障りなどあるでしょうか、きっと極楽浄土にいけることでしょう」
駒姫とは:
安土桃山時代の女性。最上義光と釈妙英との間の次女で、羽柴秀次の側室候補。別名、伊万。伊達政宗の従妹に当たる。
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の命により他の豊臣秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。
加賀千代女(かが の ちよじょ)
月も見て われはこの世を かしくかな
「美しい月も見れたのだから、私はこの世を去りましょう」
加賀千代女とは:
江戸時代の俳人。一般庶民にもかかわらず、幼い頃から俳諧をたしなんでいたという。
52歳には剃髪し、素園と号した。72歳の時、与謝蕪村の『玉藻集』の序文を書く。法名は素園。千代、千代尼などとも呼ばれる。
以上、美しい辞世の句《女性編》を紹介しました。
現在は、戦国時代のように不遇の時代ではありませんが昔の女性も現代の女性も心情的には通ずるものがあるのではないでしょうか?
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