要石とは?
要石(かなめいし)は、『茨城県鹿嶋市の鹿島神宮』と『千葉県香取市の香取神宮』にあり、地震を鎮めているとされる、大部分が地中に埋まった霊石のことです。
要石は大神の御座、磐座(いわくら)とも伝えられる霊石とも記されています。
古伝によればその昔、鹿島神宮の武甕槌(タケミカヅチ)神、香取神宮の経津主(フツヌシ)神の二柱の大神は天照大神の大命を受け、芦原の中つ国を平定し、常陸・下総付近に至った。しかし、この地方は、地震が頻発し、人々はとても恐れていました。
これは地中に大きな鯰魚(なまず)が住みつき、荒れさわいでいるせいだと言われていました。大神たちは地中に深く石棒をさし込み、鯰魚(なまず)の頭尾を押さえ地震を鎮めたと伝わっています。この石棒が要石と呼ばれています。
要石の形は?
鹿島神宮の要石は凹形
香取神宮の要石は凸形
地上に見えている部分はほんの十数センチメートルで、その下の埋まっている部分がとても巨大で、その大きな石で大鯰(大鯰)押させつけていると言われています。
鹿島神宮の要石は、祭神たるタケミカズチノカミが降臨したとき坐した石で、地震を防ぐと伝えられています。
貞享元年(1664)三月、徳川光圀公が当宮に参拝の折、これを掘らせたが根元を見ることが出来なかったと伝わっています。
また、両者の石は地中で繋がっているとも言われます。
主祭神
鹿島神宮の主祭神
鹿島神宮には、建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が祀られています。建御雷之男神は、古事記や日本書紀に登場する神で、雷神、かつ剣の神とされ、相撲の元祖ともされる神です。
『日本書紀』では「武甕槌」や「武甕雷男神」などと表記される。単に「建雷命」と書かれることもあります。
『古事記』では「建布都神(たけふつのかみ)」や「豊布都神(とよふつのかみ)」とも記されています。
香取神宮の主祭神
香取神宮には、経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られています。 経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神で、『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しません。
別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場します。
要石と大鯰
大鯰(おおなまず)は、巨大なナマズの姿をした、日本の伝説の生物。地下に棲み、身体を揺することで地震を引き起こすとされる。
鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているため、これらの地域には大地震がないといわれています。
ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もあるようです。鹿島神宮と香取神宮は、日本で古来から神宮を名乗っていたたった3社のうち2社であり(もう1社は伊勢神宮)であるため、その重要性がうかがえます。
鯰絵(なまずえ)
要石が一般に広く知られるようになったのは、安政の大地震(1855)で「鯰絵」が大量に出回った頃だと思われます。
安政二年(1855)10月の「安政の大地震」で江戸市中は甚大な被害を蒙りました。この直後から、地震を引き起こすと信じられていた大鯰を描いた、「鯰絵」と呼ばれる版画(多色刷り浮世絵)が市中に大量に出回りました。
古くは、地震を起こすのは日本列島の下に横たわる龍、あるいは日本列島を取り囲む地震虫だと言われていましたが、江戸時代頃から、大鯰が主流となりました。
1855年10月の安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになり、地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れたようです。
要石と大鯰 まとめ
『要石(かなめいし)』と地中で暴れる『大鯰(おおなまず)』について紹介しました。
ナマズと地震の関係について触れた書物としては古く『日本書紀』にまで遡ることができるといわれています。
安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が伏見城築城の折に家臣に当てた書状には「ナマズによる地震にも耐える丈夫な城を建てるように」との指示が見え、この時点で既にナマズと地震の関連性が形成されていたことが伺えます。
要石には他にも建築用語で、アーチ、ボールトの頂部を飾る迫石 (せりいし)にも用いられる言葉です 。全体を固定する楔形(くさびがた)の石ことで、このアーチやボールトの安定性はこの石にかかっており、これを抜取るとくずれるので “要の石” ということで使われているようです。
また、ある物事の中心となる重要な場所や人などに対して使ったり、囲碁で、彼我の攻防の要点を形成する重要な石に対しても使われるようです。
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